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鎌倉・南北朝時代

四條畷の合戦 楠正行(くすのきまさつら)、無念の涙

武士の世の中(鎌倉時代・南北朝時代)

交通の要衝として賑わう

 天野川を隔てて大和に接する当地は、河内、大和間の文化交流の中継点として早くから開けていましたが、さらに平安時代になると、東高野街道、古堤街道、清滝街道が貫通する交通の要衝として人々や物資が盛んに行き来するようになりました。。
 鎌倉時代の遺産としては、住吉神社(田原)に残る石風呂があげられますが、府内でも数少ない貴重な考古資料として有形文化財に指定されています。そのほか皿や羽釜、井戸などの出土品も、この時代の人々の暮らしを伝える大切な遺産です。
 逢阪五輪塔は、ここを通る旅人の安全を祈願して、村人によって1336年に建てられたものですが、この年に始まった南北朝動乱に登場するのが、四條畷にゆかりの深い楠木正成、正行親子です。

激戦「四條畷の合戦」

楠正行出陣の様子イラスト

 南朝方の後醍醐天皇に味方した楠木正成が、北朝方の足利尊氏と戦い兵庫湊川で戦死したのが、動乱の始まった年の1336年。その10年後、父正成の遺訓を守って足利氏に戦いを挑んだのが正行、正時兄弟です。その最後の決戦は、飯盛山西側山麓一帯(四條畷・大東)で繰り広げられました。
 わずか3千の兵を率いて吉野を出発した正行が、足利氏の武将、高師直[こうのもろなお]が率いる6万の大軍と遭遇。正行軍は、清滝川の北側で指揮をとる師直を目指して進撃しますが兵も馬も次々と失い、8時間に及ぶ激戦の末、正行は無念の涙を飲んで腹かき切って果てたといわれます。その家臣、和田賢秀はなおも一人で師直の首をねらいますが果たせず、首をはねられます。その首が敵の喉に噛み付いて離れなかったと言われ、以来賢秀は「歯神さん」とあがめられることになりました。
 正行の死後80年ほどして、彼の霊を弔うために小さな石碑が建てられ、左右に楠が植えられました。この2本は成長して1本に合わさり、石碑を包み込んでしまいました。小楠公墓所楠の巨木がそれです。墓所は明治8年になって1054坪に拡張され、7.5メートルの石碑が建てられ、さらに墓所からまっすぐ東に突き当たった飯盛山麓には四條畷神社が建てられました。